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東京高等裁判所 平成9年(う)735号 判決 1997年11月28日

本店所在地

東京都台東区谷中一丁目五番一一号

ジャイロ産業株式会社

(右代表者代表取締役 内田照捷)

本籍

東京都新宿区百人町二丁目三二〇番地

住居

東京都文京区小日向一丁目二三番二号 メゾン蛙坂三〇一号

会社役員

内田照捷

昭和一七年二月二七日生

右の者らに対する各法人税法違反被告事件について、平成九年三月二六日長野地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人らから控訴の申立てがあったので、当裁判所は、検察官増田暢也出席の上審理し、次のとおり判決する。

主文

本件各控訴を棄却する。

被告人内田照捷に対し、当審における未決勾留日数中一六〇日を原判決の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、主任弁護人本田一則名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官増田暢也名義の答弁書に各記載のとおりであるから、これらを引用する。

論旨は、要するに、野尻湖物件の売買に関与したのは株式会社まきば(以下「現まきば」という)であるのに、原判決がこれを被告会社ジャイロ産業株式会社(以下「被告会社」という)であると判断して、被告人内田照捷(以下「被告人」という)が野尻湖観光開発株式会社(以下「野尻湖観光」という)から受領した二〇億円を被告会社に帰属するものと認定し、また、右二〇億円は被告人個人の借受金であるのに、原判決がこれを被告会社が野尻湖物件の売買を仲介したことによる手数料であると認定したのは、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認に当たるというのである。

そこで、原審記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討するに、原判決には所論のような事実の誤認は認められず、原判決が補足説明として判示するところも正当として是認することができる。

一  控訴趣意三項ないし六項(野尻湖物件の売買に関与した会社)について

1  所論は、野尻湖物件の売買に関与したのは被告会社ではなく、現まきばであると主張し、原判決の補足説明を論難する。

所論の論難する主要な点に対しては、2以下で個別に判断を示すこととするが、それに先立ち、原判決の認定を支えている基本的な証拠関係を指摘しておくと、被告人は、捜査段階において、国税査察官及び検察官に対し、本件二〇億円の性質について、野尻湖物件からの融資金である旨弁解しつつも、野尻湖物件に関与した主体については、被告会社であって、自分はその代表取締役として行動しており、右二〇億円も被告会社の資金として受け取った旨を供述していた。また、被告人の内妻で被告会社の経理の手伝いをしていた竹内光子は、検察官に対し、被告会社が野尻湖物件の売買を仲介して手数料を受け取った旨を明確に供述していた。さらに、竹内が被告人の指示により記録していた支払記録ノートには、野尻湖物件の売買に絡む入出金が被告会社のものとして記録されている。なお、被告会社の営業目的は不動産売買の仲介等であるのに対し、現まきばの営業目的はこれとはまったく異なるものである。

2  所論は、原判決は、被告人が、平成元年一月当時、被告会社を被告人の経営する関連会社をまとめたジャイログループの総合本部とし、同グループの代表者と称して活動していたと判示し、このことを被告会社が本件の売買に関与したことの証左としているが、当時ジャイログループという実態は存在しておらず、被告会社が右グループの中核会社として活動していた事実もないと主張する。

検討するに、被告人は、平野義幸により昭和六二年三月一一日設立されたランドプランナーシステムズ株式会社を譲り受けてその代表取締役に就任し、その商号を昭和六三年四月二五日株式会社ジャイロ(以下「旧ジャイロ」という)、平成元年四月四日ジャイロ産業株式会社に順次変更した。設立当初から、同社の本店の所在地は東京都台東区谷中一丁目五番一一号であり、主たる目的は不動産の売買、賃貸、仲介及び斡旋であった。

他方、被告人は、昭和六二年九月一七日ジャイロ産業株式会社を設立してその代表取締役に就任した。同社の商号は、平成三年四月一七日に株式会社まきばに変更され、本店の所在地は、当初東京都新宿区西新宿八丁目二〇番三号(第拾泰平ビル)であったが、平成二年六月五日同区西新宿六丁目一一番三号(興和物産ビル西新宿KBプラザ三〇八号室。以下「KBプラザ事務所」という)に、次いで平成三年四月一七日東京都文京区小日向四丁目五番一〇号に移転され、主たる目的は、当初畜産品等の製造販売等であり、その後何回か変更されているが、不動産の売買や仲介等に関連するものが含まれたことはない。この会社が現まきばである。

被告人は、右の二社のほか複数の会社を経営していたが、平成元年一月ころまでには、自己の経営する関連会社をまとめたジャイログループを形成して旧ジャイロをその中核会社に据え、グループのロゴマークを刷り込んだ同年の年賀状にも旧ジャイロがグループの総合本部である旨を表示していた(なお、同年九月一一日ころ作成された同月六日付けの基本協定書及び覚書等にもジャイログループの表記がある)。当時、旧ジャイロは、事務所をKBプラザ事務所に置き、現まきば及び株式会社ジャイロユウを含む関連数社も同じ場所に事務所を置いていたが、事務所の賃借料は旧ジャイロが負担し、被告会社になってからは同社が負担していた。なお、現まきばは、一〇〇万円単位で乱発した手形が不渡りとなり、平成元年三月ころには二回目の不渡りを出して倒産の危機に陥ったため、被告人は、被告会社の商号を現まきばの当時の商号であるジャイロ産業株式会社に変更して生き残りを図ろうとした。そのため、平成元年四月から同三年四月までの間、ジャイロ産業株式会社という同一商号の二つの会社が台東区内と新宿区内に併存することになった。

右の事実経過によれば、被告人は、平成元年一月当時、被告会社を被告人の経営する関連会社をまとめたジャイログループの総合本部とし、同グループの代表者と称して活動していたことは明らかであり、証拠上これを覆すべきものは存在しない。なお、所論は、当時、KBプラザ事務所がある興和物産ビルの一階ロビーの会社案内板に「ジャイロ産業株式会社」と表示されていたことを指摘し、これは現まきばがグループの中核会社であることの証左であるというのであるが、現まきばの本店所在地がKBプラザ事務所に置かれることになったのは、前記のとおり平成二年六月五日のことであり、しかも、その前から同事務所は被告会社を含むグループの共同事務所として使用されていたのであるから、所論は適切とはいえない。

3  所論は、被告会社と現まきばとの営業目的の相違から、本件売買に関与したのが被告会社であることを推認するのは不当であると主張する。

しかしながら、現に行われたある事業がどの会社のものであったかを判断するに当たって、その営業目的を考慮するのは当然である。なお、所論は、現まきばが不動産に関連する業務をしていたことは、当時の決算報告書や新宿税務署に提出した上申書からも明らかであるというが、右の各書面は証拠として提出されておらず、他に右の主張事実を認めるに足りる証拠はない。

また、所論は、買受申込書(原審甲二九の資料二四。以下資料番号のみを示す)、基本協定書(同二五)、覚書(同二六)、合意書(同三九)、現地法人野尻レイクカルチャー開発株式会社の設立書類にある一般公募の株式申込証(同四〇)に押印されている印鑑がいずれも現まきばの登録印であることを指摘し、これは現まきばが関係会社であることの証左であるというのであるが、証拠によれば、被告会社は、商号を「ジャイロ産業株式会社」と変更した後も、変更に応じた会社印を作成していなかったため、被告会社を当事者とする右の各書面に押印するに際し、その会社印を用いることができず、さりとて旧商号当時に作成していた「ランドプランナーシステムズ株式会社」と刻した記名印を使用する訳にもいかないため、便宜、当時被告会社と同一商号であった現まきばの記名印及び登録印(代表者印)を押印したことが認められるから、この点の所論も失当である。

4  所論は、ランドプランナーシステムズ株式会社がKBプラザ事務所を賃借していたことに関する覚書(原審平成七年押第二七号の6)には、被告人が同社の代表取締役として表示されているが、被告人は同社の代表取締役に就任したことはなく、また、旧ジャイロを賃借人とする貸室賃借契約書(同押号の7)の作成日付当時には、賃借人である株式会社ジャイロユウの設立登記が未了であったから、これらの書面は実態を伴わないものであると主張する。

しかしながら、覚書については、そのような書面が作成されていること自体、被告人が右の会社の実質的経営者であったことを推認させるに十分であり、また、貸室賃借契約書についても、設立登記が未了であるからといって契約の締結ができないわけではないから、これを実態を伴わない書面であるということはできない。

5  所論は、本件に関与したのは被告会社である旨の被告人の捜査段階での供述は、捜査官の誘導に乗せられたものであり、被告人は、記載内容に誤りがあるのを承知の上で署名指印したものであると主張する。

しかしながら、証拠上そのような形跡は一切窺うことができず、かえって、被告人は、グループ各社のうち被告会社が本件に関与することとなった経緯について、本人しか知り得ない内容を含めて合理的に説明しているのであるから、右の主張は失当である。

6  所論は、被告人が光本博志に送付した開発資金六〇億円の融資依頼に関するFAX原稿(資料二九)及び野尻湖物件の売買価格を六〇億円と書き換えた覚書(資料二七)に記載されている「ジャイロ産業株式会社」は現まきばを指すものであると主張する。

しかしながら、そのことを認めるに足りる証拠はない。

7  所論は、現地法人である野尻レイクカルチャー開発株式会社の一般公募株を取得したのは、現まきばであるから、このことは本件に関与したのは現まきばであることの証左となると主張する。

しかしながら、証拠によれば、現地法人は、平成元年一二月七日、被告人を代表取締役とし、資本金を二〇〇〇万円として設立されているところ、被告会社が現まきばの会社印を便宜使用して株式申込証(資料四〇)を作成したものの、結局、この出資金は、住友銀行数寄屋橋支店の被告会社名義の預金口座に入金された本件仲介手数料の中から被告人に貸し付けられた二〇〇〇万円をもって充てられているから、所論は前提を欠いている。

二  控訴趣意七項(被告人が野尻湖観光から受領した二〇億円の性質)について

1  所論は、野尻湖観光の石田良和は幸崎勝利に野尻湖物件の売却に協力するよう依頼した旨、石田の依頼を受けた幸崎は被告人に野尻湖物件の買取り又は買主探しを依頼した旨、石田は幸崎とともに被告人との間で交渉を重ねた末、被告会社に野尻湖物件の売買の仲介を引き受けさせた旨の原判示は、事実の誤認であると主張する。

検討するに、石田は、当初は野尻湖物件を野尻湖観光で買い受けた上で開発しようと考え、被告人にそのための資金調達の依頼をしたこともあったが、資金調達の目途が立たないため、野尻湖物件を買い受けた後は他に売却するしかないと考えるようになり、昭和六三年夏ころ、幸崎に対し成功報酬を支払うことを提示して野尻湖物件の売却に協力するよう依頼し、幸崎は、平成元年二、三月ころ、被告人に対し野尻湖物件の買取り又は買主探しを依頼し、当初乗り気のなかった被告人を説得するなどし、被告人も、これに応じるような態度を示すようになった。その後、同年七、八月ころ、石田は、幸崎とともに、KBプラザ事務所の被告会社に何度か赴き、野尻湖物件の物件目録等を示して被告人と交渉を重ねた末、被告会社に野尻湖物件の売買の仲介を引き受けさせることに成功した。

被告人は、被告会社に買取資金がないため、売買の仲介を引き受けたものの、さらに旨味のある方法として、自らが関与して現地法人を設立し、そこに売却を仲介して手数料を得るほか、現地法人が野尻湖物件を含めた土地をリゾート地として開発して利益を上げようと考え、石田との間で仕切値等についての交渉を経た後、平成元年九月一一日ころ、幸崎の立会いの下で、被告会社の野尻湖観光に対する野尻湖物件を買い受けたい旨の同月六日付け買受申込書(資料二四)、被告会社と野尻湖観光が開発事業主体となる現地法人の設立に協力する旨の同日付け基本協定書(同二五)、野尻湖観光と被告会社との間の野尻湖物件についての売買価格を五五億円とする旨の同月一一日付け覚書(同二六)を取り交わした。右の各書面において、被告会社が買主となる旨記載されているのは、被告会社が仲介を一任されたことを外部にも明らかにするための手段とする趣旨であった。

その後、被告人は、現地法人設立のための準備や野尻湖物件の買受け、開発のための融資依頼に奔走したが、融資話ばかりか現地法人設立のための資金調達さえ進まないうち、買主が株式会社ケー・ビー・エス開発(以下「KBS開発」という)に決定してしまったため、その売買を成立させるべく仲介行為に力を入れ、平成元年一一月三〇日、野尻湖観光とKBS開発との間で売買契約が締結されるに至った。現地法人が設立されたのは、その後の同年一二月七日のことであった。

右の事実経過によれば、原判決の認定は相当であって、これを覆すべき証拠は存在しない。

2  所論は、原審が、買受申込書(資料二四)、基本協定書(同二五)、覚書(同二六)、メモ(同一九、二一、二二)等が売却に関する書面であると認定しているのは誤りであると主張する。

しかしながら、これらの書面が売却に関するものであることは証拠上明らかである。

3  所論は、石田は、原審公判で、開発を断念したのは平成二年二月である旨述べているから、その前の平成元年七、八月ころに被告人に売却依頼をしたとの原判決の認定は事実の誤認であると主張する。

しかしながら、石田は、野尻湖物件をKBS開発に売却した後も、自らが取締役に就任していた現地法人の手でKBS開発から野尻湖物件を部分的に買い戻した上で他に転売し利益を得たいと希望していたが、平成二年二月には売買価格が最終的に七五億円に高騰し、もはや現地法人が買い戻すには高額に過ぎる状態になったことから、平成二年二月の時点で、最終的に転売を断念したものと認められるのであって、石田は、転売も開発の一部であるとの認識で右のような供述をしたものであることが認められる。

三  結論

刑訴法三九六条により本件各控訴を棄却し、被告人に対し、平成七年法律第九一号による改正前の刑法二一条を適用して当審における未決勾留日数中一六〇日を原判決の刑に算入することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 香城敏麿 裁判官 佐藤公美 裁判官 杉山慎治)

控訴趣意書

被告人 ジャイロ産業株式会社

被告人 内田照捷

右両名に対する法人税法違反被告事件についての控訴の趣旨は、左記の通りである。

平成九年六月九日

右主任弁護人 本田一則

東京高等裁判所

刑事第一部 御中

現判決には、明らかに判決に影響を及ぼす事実の誤認が在するので、その破棄を求める。

一 原判決の事実認定は、終始一貫して、検察官の見解に添ったもので、事実の誤認は勿論のこと、一般の社会常識からも不自然極りなく、全く容認できるものではない。

二 主な事実認定の第一は、旧ジャイロ(被告人会社)がジャイログループの中核会社であり、本件事件となった野尻湖観光開発株式会社(以下「野尻湖観光」という)、代表取締役石田良和(以下「石田」という)との事業推進を執り行ったのは、現在の株式会社まきば(旧ジャイロ産業株式会社、以下「現まきば」という)ではなく「旧ジャイロの被告会社の業務であった」と認識することである。第二には、現まきばが事業参加していた中国海南島のシー・ビュー・インターナショナル・ホテルの売却話に端を発し、石田らへの貸金行為があった後、債務を全く履行せず雲隠れしていた石田から、被告人が野尻湖周辺の開発に関する支援要請を受けた事実を全く勘案せずに退けていること、第三に、証拠資料に検察官提出の甲第二九号証添付の資料(以下単に「資料」という)に記載された内容と矛盾する検察官見解と証人の供述を採用していること。殊に買受申込書(資料二四)については、不動産業界における書面の効力の認識を大きく逸脱するばかりでなく、一般の社会常識範疇にも入らない判断を行っていることである。検察官の見解は「当社から石田が物件の売却を被告人に依頼した」と、売却依頼の証拠として、買受申込書(資料二四)と基本協定書(資料二五)及び覚書(資料二六)の三書面によって「仕切値を定めた」としている。従ってこれ等の書面が売却のために作られた書面でない事になれば、検察官の見解の根底となる条件が覆える訳であるが、残念ながら原判決は、この断定に著しい誤りがあることに気付かず、その結果、後に結ばれた合意書(資料三九)の意味も確認しているのである。第四としては、本件の野尻湖プロジェクトに関わる以前に、石田と被告人との間に、「金銭の貸借関係が存在していたこと」である。法律上の強制力が及ぶか否は別として、被告人石田の態度いかんでは告訴も辞さずと考えていた背景から、何の補償行為も伴わない形で、石田支援に動くとは、常識的にも考えられない事である。しかし、この点についても原判決は、この背景的要因を全く看過して、不自然極まらない石田供述を認めているのである。その他には、石田・幸崎の証言がいかに信用性が無い嘘言か、また、平成元年一〇月一日の河本会認メモ(資料三〇)など、重大な誤認や矛盾が多々在するのである。

三 被告会社(旧ジャイロ)の業務について

1 判決謄本八ページ一行目から四行目には、被告会社と被告人の位置付けについて、次の通り認定している。

『被告人内田が、被告会社の代表取締役としてその業務全般を統括し、平成元年一月当時、旧ジャイロを被告人内田の経営する関連会社をまとめたジャイログループの総本部とし、その代表者と称して活動していた。』

しかし、平成元年一月当時には、ジャイログループという実態が存在していた訳ではなく、ましてや被告会社がジャイログループの中核会社として活動していた事実は全くない。

当時の被告人の活動は、現まきばの業務を中心にして動いており、対外的に交付する書類や名刺等に、被告会社のものは使われていない。また、被告会社は、前任の平野義幸社長から昭和六三年四月に、被告人に預けられたばかりで、社員ゼロ、資産ゼロ、しかも営業活動をしていた事実は皆無である。

総本部という表現がたった一度だけ、即ち、現まきばの体制を装うため平成元年の年賀状にその旨表示した事はあるが、決して実態を伴ったグループがある訳でも、被告会社がグループの中核会社という訳でもないのである。総本部という表示は、創立まもない貿易会社の現まきばが、取引先や関係者から信用を得たいという配慮から生まれたものであり、この年賀状(資料一一六)以外には全く使われていない。また、当時事務所として使用していた新宿区西新宿六-一一-三興和物産ビル(KBプラザ)の一階ロビーに掲示されていた会社案内板には、ジャイロ産業株式会社として、現まきば表示されていた。車には、当時から平成元年一一月三〇日までの間において、被告会社の口座には、ジャイログループの中核会社としての資金の動き等全くない。

以上の通りで、平成元年一月当時、被告会社が中核会社であり、被告人がその代表者として活動していたとする判断は、全く当たらない。

2 判決謄本二五ページ六行目から九行目では、被告会社と現まきばの定款の目的に触れている。

「登記簿上、被告会社の目的は不動産売買の仲介等であり、他方、平成元年当時の現まきばの目的は食料品の輸出入や電子機器部品の輸出入及び国内販売等であり、その後変更になっているが不動産売買の仲介等は一切ないこと、」

として、定款の目的に、現まきばのジャイロ産業が不動産売買の仲介等の定めをしていない事を理由に、本件野尻湖プロジェクトに関与してきた会社が被告会社であると、誠に乱暴な決め付けをしている。即ち、ここでは定款の目的の定めによって業務を事実と異なる会社の行為と認定する押付けを行っていることと、もう一つの誤りは「不動産の仲介だ」とする点である。

事実は、野尻湖周辺の開発資金の調達を、現まきばが担う話となり、野尻湖観光開発と現まきばが合併することまで考えた共同事業主関係でスタートしたものである。この点は、野尻湖観光と現まきばが結んだ基本協定書(資料二五)の内容に「一緒になって開発する」と明記されていることからも、明確に確認できる筈である。

現まきばの定款の目的欄に不動産取引が入ってないことを理由にとして、本件野尻湖プロジェクトに関与した会社が現まきばではないとする認定は、全く根拠にはならないし、現実には定款の目的にない業務や相応しいとはいえない投資なども行っているのである。この点、不動産絡みの案件にも現まきばで関与している事は、当時の現まきばの決算報告書でも明らかであるし、押収された書類の中にある現まきばが新宿税務署に提出した上申書でも、当時の実態が明確に確認できるところである。また、「仲介」という不動産売買の業務に限るならば、単に定款の定めによることはできず、当然不動産取引業の免許を持った会社が業務をせざるを得ない事になる。つまり業法違反を避けるという意味で一般的には不動産業の登録業者を立てる事が為されている。従って、この点からすれば、不動産売買の仲介ができる会社を立てて然るべきで、むしろ不動産売買の仲介ではなかったとする方が自然であり、当時被告人の支配下にあった不動産取引業の登録を行っている会社を立てていない事からして、そうした売上ではなかったことが推量できるものである。ましてや定款の目的の定めによって、開発をめざし業務まで特定することは法外のことと言わざるを得ない。更に、本件の野尻湖プロジェクトに関わる証拠書類である買受申込書(資料二四)、基本協定書(資料二五)、覚書(資料二六)、合意書(資料三九)、現地法人・野尻レイクカルチャー開発株式会社の設立書類にある一般公募の株式申込証(資料四〇)に押印されている印鑑は、現まきばの登録印である。

以上のことから本件野尻湖プロジェクトに関与した会社が、被告会社であると認定した判決は、全くの誤りであると言わざるを得ない。

3 判決謄本二五ページ一〇行目から一二行目では、被告会社がKBプラザ三〇八号室の事務所を賃借したと認定している。

「被告会社の前身であるランドプランナーシステムズ株式会社が、昭和六二年六月一日KBプラザ事務所を実質的に賃借したこと」とし、根拠を、覚書(平成七年押第二七号の六)と貸室賃貸借契約書(押第二七号の七)に求め、『旧ジャイロが株式会社ジャイロ・ユウに対し、KBプラザ事務所を昭和六三年一二月一日から二年間賃貸し、同年一一月一五日付けの右貸室賃貸借契約書には、旧ジャイロの所在地がKBプラザ事務所と表示されていること』としている。

覚書及び貸室賃貸借契約書に関する意見は、公判の日程的な制約で叶わず、意見書として提出したが、重要な個所でもあるので、新たな資料を整備し、詳細に反論する。

要点だけ記すと、原判決が認定している「昭和六二年六月一日」には、未だ所有者である興和物産から賃借をしていない。

被告会社が(株)ジャイロ・ユウに対し、「昭和六三年一二月一日」からKBプラザ事務所を転貸したことや、貸室賃貸借契約書が作成されたとする日付が、「昭和六三年一一月一五日」となっているが、いずれも(株)ジャイロ・ユウが設立される以前の日付である。この一言をもってしても、覚書や貸室賃貸借契約書が実態を伴わない書面であり、明らかに何か別の目的のために作成されたことが容易に推察できる。また、被告会社の前身であるランドプランナーシステムズの本店は、この昭和六三年一二月当時も台東区谷中にあり、実質的運営は平野義幸社長が司っていた。しかも事務所は、平野社長の経営する別会社が所在した青山の辰村ビルにあったのである。このことからしても、KBプラザ事務所に被告会社の前身であるランドプランナーシステムズが存在したものではないことが容易に理解できる。ましてや、この書面は、ランドプランナーの代表取締役として被告人が表示されているが、被告人が、ランドプランナーの代表取締役に就任した事実はない。そして、設立から、被告人が同社の経営を引き継いだ昭和六三年四月までの間、被告人の関与は全くないのである。

こうした事実と違う不自然な書面の作成は、被告人自ら行ったものではないので、何故かかる書面が作成されたのか、その経緯と目的を明確にしたい。この様な事実に合致しない書面に、被告会社の表示があるからと言って、実際被告会社がKBプラザに存在したという証明にはならない筈である。事実、その後KBプラザの実際上の契約者であり使用者であった現まきばに、賃貸借契約の解約に伴う返還保証金が、所有者である興和物産から送金されていることからも、被告会社やジャイロ・ユウが存在していたという覚書、貸室賃貸借契約書が事実と異なるものであることが判る(意見書三四頁から三七頁)。

4 判決謄本二六ページ六行目から一一行目には、「同年九月一一日頃作成された右買受申込書、基本協定書、覚書には、KBプラザ事務所を所在地とするジャイロ産業株式会社が表示されているところ、現まきばは、その本店所在地を昭和六二年九月一七日の設立以降新宿区西新宿八丁目二〇番三号とし、平成二年六月五日に初めてKBブラザ事務所に移転したことが認められ、」とあり、買受申込書、基本協定書、覚書に表示されたジャイロ産業株式会社が被告会社のである旨認定している。

しかし、前記の通り、当時被告会社は対外的な営業はしておらず、文書の交付すら一切行われていないこと。そして、前記各書面に押印されている印鑑が、いずれも現まきばの代表印であることからして、この認定が誤りであることは一目である。この事を否定するため、竹内の供述調書(甲八)や被告人の質問顛末書(乙一・一三・一四)、弁解録取所(乙七)、検察官面前調書(乙八)に因っている。しかし、これ等の調書は、予め筋書に添った作文に基づいた誘導に乗せられたもので、しかも、被告人が内容に誤りがあるのを承知の上で敢えて指印したもので、事実と相異する事は、公判廷において供述した通りである。

捜査段階では再三に亘り、被告会社の行為ではないと主張する被告人は、平成六年一〇月頃国税係官の要求に従って、被告人会社と現まきばの登録印及び印鑑証明書を提出し、大いに揉めていた事項である。国税の捜査では、時間に追われる状況などもあって、被告人の妥協があったことは確かであるが、検察官の取調においては、初期の時点でトラブルがあり、まともな訂正の申し入れを拒否されるばかりか、一方的に作文したものに署名指印するよう求められ、一旦は黙秘や署名拒否をする旨の宣言をする場面もあった。しかし、被告人は提示された証拠書類の内容からは、どんな曲解が為されても、必ず真実の主張が立証でき、判って貰えるとの自信があったので、徹底して公判の場で理解して貰うこと以外にないと意を固めて、検察官の組立てた通りの調書を黙認するところとなった。原判決では、かかる状況について全く勘案されていないのが残念である。

被告会社は、創立当初からその本店を台東区谷中に置いているのに対し、現まきばは、KBプラザに本店を移しているのである。この点につき原判決は、被告会社には触れず、現まきばの本店移転について、「平成二年六月五日に、初めてKBプラザ事務所に移転した」と言っている。つまり、時期がずれて「初めて」KBプラザ事務所に移したのだから、買受申込書、基本協定書、覚書に記載されているジャイロ産業株式会社は、台東区谷中を本店とする被告会社の事だと認定しているのである。かかる認定が極めて不合理であることは論を待たない。

被告人内田が開発資金六〇億円の融資依頼をしたシード開発(株)の光本博志社長宛平成元年九月中旬頃のFAX原稿(資料二九)記載にある「ジャイロ産業(株)の謄本経歴書と印鑑証明書」なるものが押収されているので、是非、この会社謄本や経歴書、と印鑑証明書が被告会社のものかどうかの証拠として示して確認すべきである。尚、右FAX原稿にも記載があるように当時ジャイロ産業の役員変更をしたため謄本を改めて取り直して送付する旨事情説明をしているので、被告会社を現まきばの商業登記簿謄本により、いずれの会社が関与していたのか、容易に確認はできるのである。

5 判決謄本の一一ページ初めから七行目では、『まもなく、幸崎からシード開発株式会社(以下「シード」という)の代表取締役光本博志(以下「光本」という)を紹介され、同人に対し、野尻湖物件の説明をし、同物件の売買価格を六〇億円と書き換えた覚書(資料二七)等を送付し、被告会社が野尻湖物件を買い取って開発したいので、被告会社にその資金の融資先を探して欲しい旨依頼した。』と認定している。

「幸崎から光本を紹介された」との記載は乗松から紹介されたので誤りが認められるが、ここで言う「シード宛に送付した覚書等」に記載されている会社が被告会社か否かは、謄本や印鑑証明、押印されている印鑑から現まきばであること明らかで、被告会社が融資の受け皿として登場していない事は明白である。更に、この後締結された野尻湖観光開発とジャイロ産業との合意書(資料三九)に基づいて設立された現地法人・野尻レイクカルチャー開発(株)の一般公募株を実際に取得した会社が旧ジャイロ産業の現まきばであることは紛れのない事実である。

原判決でいう被告会社がジャイログループの中核会社で、野尻湖プロジェクトに関ったとするのであれば、現地法人の株式取得に登場しなかった事は極めて不自然であり、むしろ終始一貫野尻湖プロジェクトに関与してきたのは現まきばであったことを証明しているのである。

6 判決謄本では二九ページ四行目から終りまで『本件売買に関わる金員を被告会社の貯金口座に入金したのは、当時被告会社が実質的な活動をしておらず、他の金員と区別して容易に右金員の把握ができるという事情があったからに他ならない旨主張するけれども、前認定のとおり被告会社はジャイログループの中心的存在であったこと、資料八五によれば、被告会社の右預金口座には本件売買の成立前にもそれなりの金員の出入りがあったことが認められること等に照らし、右主張は採用できない。』としている。

資料八五の貯金口座の金員の動きを詳細に吟味すれば、原判決の判断にある「それなりの金員の出入りがあった」ということがジャイログループの中心的存在を意味する金員の動きであるか、容易に判ることである。勿論、前記通り、被告会社は、中心的役割を担える様な実態もなくむしろ実績づくりの形を付与しなければ体裁も整わない状態で、グループ内各社との間で、中心的な資金活動をしていた陰すらもない。僅かに、対外的な金員の動きがあったのは、不動産に関する活動ではなく、被告人が個人的に貸付けた金員の回収に絡んで、被告会社の小切手を振り出した関係での金員の出入りがあるだけである。それ等小額の金員管理をこの被告会社の預金口座で行っていたのだが、言い換えれば、それ程他の金員の出入りがない為に管理がしやすい状態だった訳で、むしろ売上げではない資金の管理を行うにはもってこいの口座だったのである。

原判決のいう「それなりの金員の出入り」が、何を根拠に資金管理に適さない、実質的な活動をしていた、グループの中心的な動きであるとの認定に繋がるのか、全く理解に苦しむことである。

四 被告会社の実態

1 被告会社は、昭和六二年三月、本店所在地を台東区谷中一丁目五番一一号として、資本金五〇〇万円、商号はランドプランナーシステムズ株式会社、代表取締役平野義幸として設立された。本店所在地は、設立以来台東区谷中一丁目五番一一号のままで移転は為されていない。設立当時の代表取締役平野社長が、当時東鉄工業(株)の開発事業部長であった被告人の人脈や案件の情報などの支援を期待して、不動産の売買、仲介を含めた開発企画をめざした会社を起こしたものであるが、間もなく被告人が、退職して全く業態の違う貿易会社(現まきば)を経営するところとなり、当初の目論見が外れた形となった。設立の手続きは勿論平野社長が全て取り行い、事務所は平野社長がすでに別会社で使用していた青山の辰村ビルに置き、平野社長が独自に営業活動をしていたが、具体的な内容を知らされていた訳ではなく、被告人は、認知していなかった。

2 当時被告人が経営に関与していた会社は、クリーン工業(株)で、本店は台東区入谷、主たる業務は喫煙パイプ製造販売、代表取締役被告人と、ホーミングライフ(株)、本店は新宿区西新宿、主たる目的は不動産売買・仲介・管理、代表取締役中島昌昭の二社があった。クリーン工業は日本たばこ産業への民営化の煽りで倒産状態に陥るところとなり、代表取締役を被告人から曽我義徳に代えて整理する方向にあった。後に、定款の目的を不動産関係に改め、グループ内の不動産を保有をする会社との位置付けとなった。

ホーミングライフは、被告人が東鉄工業の開発事業部長時代にマンション等の賃貸価格市場を把握する必要があり、東鉄工業の子会社として設立する方向で準備していたが、社内禀議が延び延びとなった事から、すでに中島昌昭をスカウトしていたこともあって、被告人が資本金を整えて設立に踏み切った会社である。同社は、平成二年になって被告人の傘下から離れることになったが、現在も大手ハウジングメーカー数社と組み、不動産業者として繁盛している。

3 ジャイロ・コーポレーションは、東鉄工業の開発事業部に出入りしていた建築設計事務所のヒロデザインオフィスの廣田所長の知人高見澤清が独立したいので応援して欲しいとの要請に応えて、被告人が設立したものである。高見澤は、被告人が東鉄工業を退社して貿易会社を興すことは承知していたが、被告人の顔を活用して、不動産案件を被告人に代わって行えば充分仕事になるとの思惑があったのである。

しかし、いざスタートしてみると、高見澤の期待する形にならない事から被告人と意見の相異が生じ、昭和六二年一二月、被告人が共同代表から降りる、KBプラザの事務所から高見澤は退去することとなった。このジャイロ・コーポレーションは、昭和六二年六月頃設立が準備され、商号も(株)ジャイロとする予定であったが、KBプラザの入居準備の関係で、新設法人では借室しにくい事や、被告人との関係が明確になるようにとの要望が興和物産の担当次長から出た為に、ジャイロコーポレーションとし、被告人が共同代表の一人となった経緯がある。

4 現まきばは、KBプラザビルのすぐ近くの第一〇泰平ビルにオフィスを借りて、資本金二〇〇〇万円、代表取締役被告人、貿易業を主たる目的として、昭和六二年九月一七日に設立された。被告人が永年携わった建築関係の分野でなく、畑違いである貿易業に転出したのは、ゼネコンを退職する際に、当時の部下達が集団追従して退職する気配があり、それを懸念回避するのには、建築以外の業態に転向するという説得が不可欠であった事による。つまり、永年世話になった東鉄工業、親身になって育ててくれた先輩の人達に迷惑をかける形での退職は、どんな事をしても避ける必要があった。従って部下は勿論、周辺の知人やこれ迄の関係者への挨拶は、今後は貿易業という未知の分野で力を試すことを宣言していた事は言う迄もないことである。

5 昭和六二年三月に設立された被告会社の前身ブランドプランナーシステムズは、平野社長の手で運営が為されていたが、一年後である昭和六三年四月には経営が立ち行かなくなり、預かって欲しいと申し入れを受けその際、税務申告期日が来ていたにも拘わらず、決算に必要な書類は一切ない状況で、ゴム印と代表印を渡された形だったので被告人は、同社を生かして活用するには、平野社長が経営していた第一期営業年度分の決算書を体制よく作成する方がいいと考え、申告期限後に、実績を創作した決算を行ったのである。つまり、同社が将来的に活動できる体制になった時、資金調達の必要が生じた際には、融資機関から過去三年間の決算書の提出を求められるので、実績作りのために恰も取り引きが成就した形で、他の案件を被告会社の業務として決算書に計上したのである。この事は意見書の〔一〕-(三)-C(四五ページ~五〇ページ)にて説明されている通りである。

6 かように、被告会社は、昭和六二年三月から昭和六三年二月までの第一期営業年度についての実態は別として、商号をランドプランナーシステムズから(株)ジャイロとし、代表取締役に被告人が就任した昭和六三年四月以降に於いては実質的な活動はない。また、事務所は当時クリーン工業が所有していた台東区入谷一-一-一〇モナーク上野四〇三号室テクノ東京という会社の事務所に同居させた形で、いわゆるペーパーカンパニーであった。ただ、将来展望の上から決算だけは体制を考慮して行っていたにすぎない。

五 KBプラザ事務所の使用実態

1 KBプラザ(興和物産ビル)三〇八号室(以下「KBプラザ事務所」という)の使用実態の推移に関して詳述する。

証拠資料等について

覚書(甲二七-六)

貸室賃貸借契約書(甲二七-七)

参考資料等について

<1> 西新宿KBプラザ賃貸借契約書(当初契約書)

<2> 同解約時契約書

<3> 保証金精算金受領書

<4> ジャイロ産業株式会社普通預金通帳(口座番号一〇八〇〇六) 住友銀行数寄屋橋支店の写し

<5> 保証人変更願書

<6> 社名変更願書

以上の書類をもって説明するが<1>~<6>の書類はKBプラザビルの所有者の興和物産から、被告人が提供してもらい、保管していたもので、押収書類の中に必ずある書類である。

2 KBプラザ事務所を賃借した経緯は、意見書(二九ページ三〇ページ)に記載ある通り、昭和六二年当時、被告人が、同じKBプラザの一一階にあったキャトルトレーディングという会社の債務整理をしていた際、所有者である興和物産との交渉過程で、KBプラザビルの管理担当次長と面識ができた。一方被告人は、東鉄工業を辞めて貿易会社を起こす準備を始めていたところ、ヒロデザインオフィスの廣田所長から紹介された高見澤から支援要請を受けて、援助することになった。そして、高見澤を社長とする新会社の事務所を手当てする話しを興和物産の管理担当次長が聞き及び、被告人がキャトルトレーディングの滞納家賃を整理した事などを評価して、是非三〇八号室を借りて欲しいとの申し入れが為されたのである。ところが、新会社の準備が万端整った段階で思わぬ渉外が興和物産の担当次長から提起されたのである。即ち、興和物産の内規で、新設法人への賃貸が難しいと言うことであった。そこで、被告人と前記管理担当部長とが協議した結果、既設法人で契約した後、それを新設法人の社名に変更し、その時点で新設法人に借主を切り替えることとし、借室契約を結んだのである。

参考資料<1>の貸室賃貸借契約書が興和物産との間で初めて契約した際のもので、昭和六二年六月一五日に締結されている。この契約書の当事者欄には、貸主として興和物産、借主としてクリーン工業(株)代表取締役曽我義徳、連帯保証人として被告人及びキャトルトレーディング(代表取締役被告人)とある。

そして、昭和六二年九月三〇日、付けで参考資料<6>の社名変更願を作成、当初の予定だった新会社の契約に変えたのである。本来であれば、社名変更ではなく、別の新法人に契約当事者を変える手続きを行うべきであるが、家主側の了承のもとで、新会社であるジャイロ・コーポレーションのに契約当事者を移行させたのである。

要約すれば、興和物産との間でクリーン工業が締結した『西新宿KBプラザ賃貸借契約書』(参考資料<1>)はクリーン工業からジャイロ・コーポレーションに移った訳である。

3 キャトルトレーディングの整理活動とジャイロ・コーポレーションでの業務がKBプラザを拠点としていたことから、被告人が主体的に事業を推めようとしていた貿易会社は(旧ジャイロ産業・現まきば)の事務所は、KBプラザの近くが良いとの判断で、道路を挟んだ西新宿八-二〇-三第拾泰平ビルとした。その後、高見澤が、ジャイロ・コーポレーションを自分自身の力でやりたいとの希望を示した為、被告人が、ジャイロ・コーポレーションの共同代表から降りた為、昭和六二年一二月にはKBプラザ事務所は空き部屋となった。

昭和六二年一二月頃には、貿易会社である旧ジャイロ産業(現まきば)の人材も拡充され、すでに第拾泰平ビルが手狭になっていた。しかも韓国の会社と推めたテレビモニター基板の制作、販売事業が本格化し、製品のストックやテスト業務を扮すスペースの確保も必要であった。そこで、現まきばの本拠を歩いて一分もかからないKBプラザ事務所に移転させ、第拾泰平ビルの方は、テレビモニター基板のストックヤードと製品のチェック作業を行う場所にすることにしたのである。そして、賃貸人の承諾のもと、KBプラザ一階の案内板に、旧ジャイロ産業(現まきば)を表示し、平成二年六月、現まきばの本店は、第拾泰平ビルからKBプラザに移転登記された。

ここで、特に注目されたい事は、旧ジャイロ産業(現まきば)が、KBプラザの家主から認知されていた事実と、昭和六三年夏ころに掲示された同会社の看板の件である。

旧ジャイロがジャイロ・グループの中心的存在だとすることが事実であれば、家主との契約の当事者に旧ジャイロが登場してもおかしくないことや、看板の表示にしても、ジャイロ・グループや旧ジャイロと表示することの方が自然なはずである。グループの形成もこの段階では存在していないが、中核会社として位置付けられるなら、少なくとも何らかの形で関与した形跡があって然るべきであるが、こうした看板の表示や契約等の行為に、旧ジャイロの陰すら在しないのである。

4 KBプラザ事務所の解約は、平成二年一一月三〇日に実行されたが、その精算等の処理は、勿論契約当事者である(現まきば)で為されている。

解約時の契約書は参考資料<2>の賃貸借契約書であるが、参考資料<3>の保証金精算金受領書の発行者欄には、当時KBプラザ事務所を本店所在地としていた旧ジャイロ産業の名称と、旧ジャイロ産業(現まきば)の代表印が押されている。また、参考資料<4>の住友銀行数寄屋橋支店の普通預金口座の写を興和物産に手渡して、精算金送金を依頼した事からも、旧ジャイロ産業(現まきば)がKBプラザの賃借人であったことが裏付けられる。

5 以上の事から、KBプラザの賃借人は、当初契約した昭和六二年六月一五日から同年一二月まではジャイロ・コーポレーションであり、かつ現実の使用者であったが、それ以降解約するまでの間は、旧ジャイロ産業現まきばが賃借人であり使用者であった。

六 年賀状について

1 甲二九-資料一一六の年賀状に関しては、意見書(三九ページ~四四ページ)に記載されている通り、平成元年正月の挨拶状として作成されたものである。

当時まだグループ化も為されていた訳ではなく、実際活動をしていたのは、貿易会社である旧ジャイロ産業現まきばだけであった。しかし同社が、起業から一年足らずで、未だ実績もない中、少しでも信用を得たいという考えから、いかにも多くの関連会社が連なるグループの一員なんだ、との印象を与えんが為に、当時中国方面を担当していた同社の吉田常務の提案から、ロゴマークの策定と併せてグループ表示の賀状を作成したのである。

2 この年賀状に登場している会社は、それぞれ別の場所に本拠地があり、貿易会社であるジャイロ産業現まきばだけがKBプラザで営業活動していたことや、一見グループとしての印象を与えるものの、年賀状に記載されている住所や電話番号から、この賀状が旧ジャイロ産業現まきばのものであることが判る。ちなみに、当時の各社の所在地等は次のとおりである。

(株)ジャイロ・・・代取 内田・・・本店 台東区谷中 事務所 台東区入谷

ジャイロ産業(株)・・・代取 内田・・・本店 新宿区西新宿 事務所 新宿区西新宿

(有)アルファ商事・・・代取 平島・・・本店 渋谷区 事務所 文京区

(株)テクノ東京・・・代取 安部・・・本店 太田区 事務所 新宿区

ウエスタンパシフィック(株)・・・代取 仲田・・・本店 藤沢市 事務所 藤沢市

(株)ジャイロ・ユウ・・・代取 内田・・・本店 宇都宮市 事務所 宇都宮市

クリーン工業・・・代取 曽我・・・本店 台東区入谷 事務所 台東区入谷

大光国際投資公司・・・代取 井川・・・本店 澤西(ジャーシー島) 事務所 ロンドン(シティ)

3 しかしながら原判決は、この賀状に「総合本部株式会社ジャイロの表示がある」との事から『(株)ジャイロの被告会社がKBプラザ事務所に存在していた』と断定した上で、更に『グループの中心的存在であった』と決め付けている。

KBプラザ事務所には、旧ジャイロ産業現まきばの従業員と役員しかおらず、看板にも旧ジャイロ産業現まきばが表示されていたこと、興和物産との契約にまつわる事については前記の通りで、被告会社の実態がKBプラザに存在した事実は全くない。そもそもグループの実態が伴っていない時期の賀状の表現のみを捉え、しかも旧ジャイロ産業現まきばの賀状であることが記載上一目の賀状をもって、被告会社がグループの中心的存在で、KBプラザ事務所に被告会社が在ったとする証拠になり得る筈がない。

少なくとも、社員ゼロ、資産ゼロ、資金潤沢ともいえず、将来の活用に備えて実績付与した決算を余儀なくしていた被告会社が、賀状に「総合本部」と記載してある一事をもって、未だ存在しないグループの中心的存在と何故認定できるのか、とくと質したい。

七 野尻湖プロジェクトの実態

1 判決謄本八ページ五行目から最終行までには、野尻湖物件に関する情報との接点について

『野尻湖観光の代表取締役の石田良和(以下「石田」という)は、かねてから野尻湖物件の買主を探していたが、昭和六三年夏ころ、幸崎勝利(以下「幸崎」という)に対し、野尻湖物件の売却に協力するよう依頼し、その売却に成功したら手数料を支払うことなどを約束し、また、そのころ被告人内田とも知り合い、同人に対し、野尻湖物件の買主を探している旨話していたが、右両名の間ではそれ以上には進展しなかった。』

と認定している。この認定は、石田証言の矛盾する供述の片方のみを安易に採用したもので、甚だ無分別な結論となっている。

まず、昭和六三年夏ころ、石田が幸崎に対し、どの様な依頼をしたのかは被告人の知るところではないが、幸崎が被告人を説得した内容からすれば、単なる物件の売却依頼が為されたとは到底推量できないこと、野尻湖物件そのものが石田の所有ではないので、この点でも単純な転売話にはならない要因があること、更には、所有者の代表的存在であった池田直一とのやり取りでも判るように、池田は転売を望んでいないことから、石田が幸崎に転売話をしたとの認定自体が不合理である。

また、石田は、昭和六三年夏ころに被告人と知り合ったというが、被告人が石田を紹介されたのは昭和六三年二月ころであり、しかも、野尻湖物件の売却の件で出会った訳ではなく、当時、現まきばが事業参加していた中国海南島のホテル売却のことで知り合った藤平弘らによって、野尻湖物件の開発資金の調達を依頼する者として石田を紹介されたのである。この点は石田の供述にもある通りである。これは後で判った事であるが、当時石田は、信濃町農協の不正融資事件の中心人物で、連日新聞紙上を賑わす渦中にあり、地元に居れない状態だったこともあり、小畑らの資金をあてにして、M資金仲間と共に行動をしていたのである。

小畑らの融資話の見通しがなかなか立たないことから、石田は、他に資金調達の道を探ることになった。その事情について石田は、第二回公判で検察官尋問に対し、次の通り述べている(公判調書二一ページ)。

検察官 そうすると平成元年七・八月頃に野尻湖物件の買主探しを再び初め、まず誰かに頼んだようなことはありますか。

石田 広沢さんに頼みました。

検察官 広沢だけですか。

石田 初めに小畑達のいるところで「こういうのがあるが、小畑は金なんか出やしねえから、こういうので金出ねえかな」と話したら、広沢がいまして、それから始まったんですね。

検察官 それは昭和六三年夏ころの話ですね。

石田 はい。

というやり取りであり、要するに、初めは小畑らの金をあてにしており、「こういうので金出ねえかな」ということは、資金調達の意図であって、売却の話ではないことを示している。

つまり、石田は、初めから資金調達をして池田物件の買収を第一の目的とし、池田物件についてくる利権や資産に大きな利益が見込めるとの勘定が出来ていたことが本件野尻湖物件取引きの根本要素であることを銘記されたい。転売するにしても、単純な取引きでは石田が狙った池田の利権と資産の確保ができないので、単純売りは石田自身がする積もりもなかったのである。

石田が真に開発をめざしていたかどうかは、結果からみると怪しいところではあるが、少なくともそう装うことで、石田自身の目論見は果たせたわけで、膨大な利益を得るには、単純な売却話はあり得ないことである。だからこそ、開発をめざした被告人に対し、石田の兄弟達が水先案内役を買って、石田が傷付けた名誉を修復できるのならとの思いで協力を誓い、念書まで差し入れているのである。単なる転売だということが石田の真意であれば、石田は、池田ら親族も含め、関係者全員を欺いたことになる。単純な売却話ならば現地法人の設立までする必要は全くなく、どこから捉えても、売却や買主探しの依頼を認定することは絶対に認められないことである。

2 判決謄本八ページ最終行から九ページ四行目までのところに

『一方、石田から依頼を受けた幸崎は、平成元年二・三月ころ、旧ジャイロの代表取締役である被告人内田に対し、野尻湖物件の買い取り又は買主探しを依頼し、当初乗り気のなかった同人を説得するなどしたことから、被告人内田がこれに応じるような態度を示すようになった。』

と認定している。

この幸崎出会いの際に被告人が渡した名刺は、旧ジャイロ産業(株)代表取締役のものであった。原判決では、被告会社の代表として幸崎と会ったとされているが、被告会社旧ジャイロは、一度も表に出ていないし、当時被告人はジャイロ産業現まきばの代表取締役として活動していたので、渡した名刺が被告会社のものである筈がない。この名刺は、幸崎の差押え書類の中にあるであろうから、この時点で幸崎に渡った名刺がいずれの会社のものか是非確認すべきである。

また、判決では、「買取り又は買主探しを依頼した」と認定しているが、幸崎は、野尻に「永住までする積もりの設計事務所所長である」ことからしても、常識的に買主探しの依頼はあり得ない。

前記1記載の認定では、「売却に成功したら手数料を払う約束をした」と、石田と幸崎との間の合意を認定している。しかし、池田物件を買収し、開発できる土地を付加た上で、幸崎が設計などを含めた許認可業務を請けるというのが幸崎の考え方で、一般的にも、設計事務所絡みの物件情報は、紐付き営業といって、物件の売買の手数料を貰うのではなく、その物件から発生する設計や許認可の業務を受託する目的で買主を探す活動をするのである。これがゼネコンなどの場合も同様で、設計は外されても特命で工事の受注ができるという条件で物件の情報を買主に提供するケースが多い。第三者へ「売却が成功したら」ではなく、池田からの「買収が成功したら」手数料を支払うことは考えられても、すぐに転売のできない物件であることや、永住の話に加えて、石田一族の栄誉となる開発をする大義があった事からして、単なる売却の活動を幸崎自身がしていたことも考えられない。

従って、幸崎が弁護人の尋問で述べている(第六回公判、四八ページ)「永住」のこと、FAX原稿(資料五一・五二)にある「石田一族の栄誉のための開発」のことと、「買主探し」の依頼とは合致しないのである。原判決は、判定に都合のよい箇所だけを採用しているもので、甚だ見識を疑わざるを得ない。

3 判決謄本九ページ四行目から一〇行目にかけて

『そのような経過の後の同年七・八月ころ、石田は幸崎とともに、被告会社の事務所(東京都新宿区西新宿六丁目一一番三号、西新宿KBプラザ三〇八号室〔以下「KBプラザ事務所」という。〕)に何度か赴き、被告人内田に対し、野尻湖物件の物件目録を示して交渉を重ねたすえ、被告会社に野尻湖物件の売買の仲介を引き受けさせた。』

と認定している。

ここで認定されている被告会社の事務所がKBプラザにないことはすでに詳記したので省くが、「被告会社に野尻湖物件を引き受けさせた」ということは断じてあり得ない。即ち五〇〇〇万円の資金の直後から雲隠れしていた石田と一年振りの再会となった場面で、被告人は、告訴も辞さずとの腹づもりもあったことや、石田から必死に支援要請を受けて一緒になって開発をする方針であったこと、まず池田所有物件を買収するための資金調達の要請を示す証拠書面が多々存するのである。原判決が、これらの事実を無視して、単純に「被告会社に野尻湖物件の売買の仲介を引き受けさせた」としている点は、全くの盲目的な判断と言わねばならない。そして、その石田の基本方針に基いて協定書の創案の協議が行われ、基本協定書の締結に至る訳で、この流れの中に売買の仲介を意図したとする証拠は存しない。

原判決が認定した平成元年八月ころから始まった石田との交渉の模様は、陳述書四「石田再会と石田支援要請の受託」(五九ページ~一三〇ページ)に記載ある通りである。また、被告人の当公判廷での供述では、藤平らから幸崎を紹介された段階から、基本協定書締結までについて、第一一回公判調書(三六ページから終わりまで)、第一二回公判調書(初めから終わりまで)、第一三回公判調書(初めから一六ページまで)に詳しく述べられている。

4 判決謄本九ページ一〇行目から一〇ページ七行目では、

『被告人内田が、石田から右の依頼を受けた際、仕切値が五〇億円前後であり、その仕切値を上回る金額で売れたらその分は被告人内田が取得してもよいという趣旨の了解を得て、その仕切値も最終的には五五億円と決まり、同年九月一一日ころ、被告人内田と石田は幸崎立会の下で、同月六日付買受申込書(甲二九の資料二四、以下、甲二九の資料を単に「資料」という。)同日付基本協定書(資料二五)のほか、野尻湖観光と被告会社との間の野尻湖物件についての売買価額を五五億円とする同月一一日付け覚書(資料二六)を取り交わした。』

と認定している。つまり、石田からの売却依頼を受けて、売却の際の仕切値を、この三つの書面で取り決めたと断定しているのである。

この点は、前記の陳述書や、被告人の公判廷での供述、更には意見書でも述べてある通り、絶対に「売却用の書面ではない」と断言して止まない。

四者会談メモ(資料一九)から始まる協定書の案文協議中のメモ(資料二一・二二)、野尻湖周辺開発計画・概算終始計算書(資料二〇)、融資内定を記載したメモ(資料二三)など基本協定書に至るまでのこれ等の書面が、売却を意図する者であるかどうか、とくと検分して欲しいものである。

5 判決謄本三四ページ初めの行から一〇行目にかけて

『しかしながら、まず石田は公判廷において、被告人内田に対し、当初開発のための資金調達の依頼をしたようなこともあったが、平成元年の七月ころには、野尻湖物件を売るしかないと考えるようになり、被告人内田に対し野尻湖物件の買主探しを依頼した旨明確に供述しているところ、石田供述内容は、幸崎が公判廷において、石田の依頼を受けて、被告人内田に対し野尻湖物件の買取り又は買主探しを依頼した旨の供述をしていることやメモ(資料一九・二一・二二)買受申込書(資料二四)、基本協定書(資料二五)、覚書(資料二六)等の関係証拠とも符号しており』

と認定しているのである。

当初開発のための資金調達の依頼をした事実を「依頼したようなこともあった」と曖昧な認定の仕方を取っているが、資金調達の役割を明記している基本協定書の内容から、少なくとも協定を締結した段階では売却話ではないとすることの方が自然である。しかも、石田が野尻湖プロジェクトの基本方針を示したのは、平成元年八月中旬、KBプラザ事務所での四者会談の席である。その際のメモ(資料一九)を充分把握すれば、売却話ではないことは明白であるので、判決で言う「平成元年七月ころには、野尻湖物件を売るしかないと考えるようになった」との石田供述を採用することは、全く事実を見究めない判定とは言わざるを得ない。まして、この四者会談で示された石田の考えに基づき協定案の詰めをしているメモ(資料二一・二二)の内容が、売却話であるかどうか、客観的に判断するべきである。更に、その結果締結された基本協定書の内容を見れば、原判決がいかに歪曲した認定をしているか、容易に判るのである。

また、この認定の誤りを正せば、当然に売却のためではなく仕切値設定の目的はあり得ないことにもなる。

6 判決謄本三五ページ八行目から三六ページ四行目にかけて

『被告人内田は、平成元年七、八月ころ乗松や光本に対し、被告会社が野尻湖物件を買い取って開発をしたいので融資先を探して欲しい旨依頼しているが、その後石田は被告会社にはそれを買い取るだけの資力がないと判断し、被告会社に買主探しを頼んだことなどの事情に鑑みると、被告人内田が乗松らに右のとおり述べたからといって、石田において被告人内田に野尻湖物件の売買の仲介を依頼したとの石田の前記供述の信用性を減殺することにはならない。』

と、矛盾する石田供述の一方のみを採用して、売却依頼を認定するがごときは、著しい偏見である。

石田が言うように、平成元年七月頃既に売却依頼に切り換えたとするのであれば、前記のように、八月から九月上旬にかけてのメモや、締結した書面との整合性が全くないことになることや、石田は公判廷で異なる意見を述べていて、石田の供述の方が、むしろ信用性が低いものである。このことについては、陳述書一一、まとめの(五)開発断念論議五一六ページから五一九ページに記載ある通りである。

石田は、裁判長からの尋問に対して(第三回公判調書、四八ページ)、内田に初めは資金調達をして欲しいと頼み、後に「数字が膨れて融資されても返す見込がない」という開発断念理由を述べたあと、『二月』に売買に切り替わった、と答えている。この供述は、取引された数字が膨れたという理由で『買い取る原価が高くなり過ぎたので開発を諦めた』ということであるが、第一回目取引のあつた平成元年一一月三〇日以降の事には違いなく、状況から考えれば七〇億から七五億に売買価格が改定された平成二年の二月のことになる。供述は平成元年と取り違えているが、前記の内容から平成二年のことを言っているに間違いないところである。

しかし、石田は、この堂々たる理由とその時期を述べたにも拘らず、第四回公判において弁護人の尋問に対し、一転曖昧な返答や異なる供述をしているのである(第四回公判調書、三ページに終わりのところから七ページ中程まで)。

弁護人 現地法人において後日買い戻すんだということを言っていたでしょう関係者は。そんなのも、あなたは聞いていないというの。

石田 あまり聞いてません。

弁護人 あまりということはどういうことですか、全然聞いていないというの。

石田 それは聞いてません。

弁護人 前回の法廷において裁判長から、本件野尻湖物件について初めは開発行為をするつもりだったけれども、その後それを断念して売買ということになった時期について、あなたはどのように述べたか覚えていますか。

石田 あんまり覚えていません。

弁護人 思い出して下さいよ。

石田 ・・・・忘れました。

弁護人 思い出して下さいよ。全然違うんですよ、今あなたが答えてくれたことと。

石田 ・・・・・・。

弁護人 時間が無駄だから、私のほうから誘導しますけれども。前回あなたは、その質問に対して、七五億との仕切の価格が出たからだと答えませんでしたか。

石田 ・・・・そうだったですかね。

弁護人 まだはっきり思い出しませんか。

石田 はい、思い出しません。

弁護人 更に誘導します。金額が上がってしまって、現地法人において買い戻すことも難しい価格になってしまったと、だから断念したんだと、こういう趣旨の答えをされませんでしたか。

石田 ・・・・そうだったですかねえ、私は・・・・。

弁護人 思い出して下さいよ。ここまで誘導したんだから。前回裁判長の質問に対して答えたのが間違いなのかどうかも含めて、よく記憶を整理して下さい。

石田 じゃ、間違いでした。

弁護人 前回裁判長からの質問に対して答えた内容は間違いだったんですか。

石田 その数字や何かについては七五とかその大きい数字になると返済が無理だなということはちょっと今記憶が戻ってきたんですけれども、契約と同時のときはもう七〇億でしたし。

弁護人 前回あなたは裁判長からの質問に対して、野尻湖物件の開発を断念したのは仕切値が七五億になってしまって、現地法人において買い戻すことがもう難しくなったと、だからであると。しかもその年月についてもあなたは答えているんですよ。そこまで答えておいて、裁判長の質問に対して間違ったなんて簡単に言える問題じゃないんじゃないのかな。

石田 野尻湖に・・・もう一回ちょっと言って下さい。

弁護人 やむを得ませんので、質問を最初から繰り返します。前回の法廷で、裁判長からあなたに対し、次のような質問がなされました。それは、あなたが本件野尻湖物件について開発を断念したのはなぜなのか、またその時期はいつなのかと、こういった御趣旨の質問がなされました。その質問に対し、あなたは次のように答えました。つまり、本件野尻湖物件についての仕切値が七五億になってしまったと、よって自分は開発を諦めたんだと、しかもその時期については平成元年二月ごろだと、こういう答えをされました。

検察官 平成元年二月ごろかどうか確認して下さい。

弁護人 平成元年二月ごろだと、そういった時期まで答えられたんですよ。その平成二年二月というのは、あなたの前回の証言の趣旨からすれば、七五億という仕切値うんぬんということからしても平成二年二月の意味だと思うんだけれども、そういった時期まで答えているんですよ。今の私が述べたこと記憶がありますか、裁判長との間でそういうやりとりがあったことは。

石田 ちょっと忘れました。

弁護人 裁判長にどういうふうに答えたか忘れたというのであれば仕方ありませんが、要するに私が今日お聞きした、あなたが本件土地についての開発行為を断念した理由と時期についてはいずれが正しいんですか。今日私の質問に対する当初答えられたことが正しいのか、あるいは前回裁判長に答えられたのが正しいのか、どちらですか。

石田 開発行為というものは、断念しません。

弁護人 終始断念しなかったんですか。

石田 ええ。今でも断念してません。

弁護人 本件野尻湖物件についてですよ。

石田 はい。

弁護人 今でも断念してないの。

石田 そうです。

弁護人 あなたとすると、本件野尻湖物件については当初から終始一貫して開発したい、という気持ちがあったということですか。

石田 はい。

弁護人 そうすると、先程述べた現地法人を作った目的についてあなたの答えと合わないんじゃないかと思うんですけれども、どうですか。

石田 私は現地法人はKBS開発ならKBS開発に買ってもらいたいために現地にそういう会社を作って、それで許可問題、そういうのは心配ありませんから後でまた開発のとき協力しますから、ぜひ買ってくださいと、こういう意味で作ったようなのが九九%。

弁護人 一%は何ですか。

石田 一%はまたそれをですね、例えば小畑なりの大きい金でもうまく融資でもぽんと決まれば、また逆にぽんとそれを新会社が買い取るかもしれない、そういう金のめどさえつけばですね。

弁護人 新会社というのは、今回設立した野尻レイクカルチャーという現地法人のことですね。

石田 私個人の。

弁護人 そういう意味では、パーセンテージで今あなたは述べられたけれども、わずかながら現地法人において買い戻して開発をしたいんだという、当初の気持ちは捨て切れずにいたというふうに受け止めてよろしいんですか。

石田 それはいいです。

弁護人 ついでにこの開発に関してちょっとお尋ねしますけれども、当初の目的というか考えどおりに開発が進んだとした場合の収支的なこと、つまりどのくらいの利益が上がるかといったようなことを、当時だれかが積算などしたことありますか。

石田 ざっとして私も胸算用で、私も口外したかどうかあれですが、大体百四、五十億になるんじゃないかなと。

弁護人 それは、利益がですね。

石田 はい、利益。

弁護人 本件土地にかかった元手など引いた利益が。

石田 いや七五億ですね。それでその倍として一五〇億と。

弁護人 そうすると、七五億はその土地に使って、買い戻しに使うから。

石田 はい、それに利息つけて、それを戻して。

弁護人 一五〇億から七五億プラス利息分引いた分ぐらいが、利益として残るであろうということをあなた自身考えたと。

石田 はい、いろいろ分離して細かくした場合ですね。

というやり取りである。

右の供述は、検察官の指導が為されたためかどうかは定かではないが、極めて不誠実な供述である。

裁判長に答えた前回証言を忘れたと逃れて、今だに開発は断念していないという不可解な返答をしているが、では何故転売までする必要があるのか質したい程である。まして当時、被告人との間で話し合いが持たれた時のメモ(資料七八)によれば、開発を断念したことを示唆する記載どころか、被告人と交わした開発のための協定や念書の履行について「自分の行動をみていてくれ」と言い、これが被告人に対する騙しの言葉でなければ、石田は未だ開発をめざしていたことになるので、むしろ裁判長に嘘を言ったことになる。

平成二年二月一三日の打合せメモ(資料七八)には、『ウラのない本音で地上げして欲しい』とか『協定、念書の実行は私をみていて下さい(石田談)』との記載があり、周辺の土地の取りまとめの打合せもしていたことからして、開発をめざしていた事実は否定できない。最初から売却を目論見ただけの買収行為ではなく、明らかに周辺の土地の買収も含めた開発をめざしていた事は間違いない事実である。

従って、判決の根拠とした「被告会社に買い取るだけの資力がないとの判断で買主探しに切り換えた」という石田供述は極めて疑わしく、供述のみを信用することは不見識で、かえって証拠資料からすれば、被告人の主張が裏付けられ、「売却の依頼があった」とする原判決が誤りであることが理解できるのである。

被告会社に資力がないということについても、石田が旧ジャイロ産業現まきばしか興信所を通じて調査できない状態にあったにも拘らず、被告会社を調査したかのような話になっているが、これも単に供述だけで、それを裏付けるような証拠は勿論ない。いつ調査をしたのか特定も為されていないが、前後の内容からすると平成元年の夏ころから交渉が始まった直後のことと理解できる(第二回公判二三ページから二七ページにかけて)。その公判調書の一部をあげると、二六ページの中程から二七ページのところに次のやり取りがある。

検察官 初めは被告会社に買ってもらおうと考えていたんですか。

石田 それもありました。

検察官 結局は買主を探してもらおうと思ったということですか。

石田 はい。

検察官 それはどうしてですか。

石田 最初広沢さんに聞いたときは、被告会社は貿易もやっている大きい会社だということで、買ってもらえると思って意気込んでいた時期もありました。

検察官 そうすると何故買主を探してもらうことにしたんですか。

石田 三栄興業が帝国興信所で被告人会社を調べたところ、余り良い報告がありませんでした。そしてその結果とても五〇億を出す力のない会社だと判断しました。

検察官 被告人会社には野尻湖物件を買うだけの力がないと判断した訳ですね。

石田 そうです。

とあります。

ここで言う被告会社とは、明らかに旧ジャイロ産業現まきば(貿易会社)を指していることになるのである。つまり、当時KBプラザ事務本拠地として活動をしていたのは、被告会社ではなく、被告会社は石田や三栄興業に知らされていないのである。

元々石田は、野尻湖観光開発で資金調達を目論んでいたが、幸崎の説明メモ(資料二一右側)にもある通り、農協絡みの不正融資事件の影響でとても表に立てられない状態であったことから、旧ジャイロ産業現まきばの看板を借りる形の資金調達をすすめることとなった経緯がある。

つまり、初めから旧ジャイロ産業現まきば買主になるとか、資金を出すとかの話ではなく、あくまで資金調達をして(池田物件の買収資金を取り付けて欲しい)石田の支援を受託したことは、協定書の案文作りの交渉過程のメモ(資料二一)に記載ある通り、「石田の信用がない」ことが、幸崎の言う看板を借りる発想に繋がり、被告人が提案した現地法人構想なのである。

八 証拠資料の解説

甲第二九号証添付の各資料の意味については、被告人の陳述書並びに公判廷における供述によって、明確に説明しているので、ここでは省略するが、いずれも、原判決の判断と異なる意味を持つもので、これ等資料からも、原判決の事実認定に大きな誤りがあることを容易に理解できる。

以上

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